ひねくれバズブログ

最近でいうと macbookAir とか、目に入れても痛くないディスプレイとか、権利団体についてとか、ケータイ自体についてとかなんですが、「それが発表(リリース)された当初は情報を知っていること自体が尊ばれるけど、時間がたって一般化していくにつれてそれについての知識をひけらかすこと(あるいは誰かに聞かれて答えること)自体が恥ずかしいな、って思えることについてはなるべく関わりたくない」という思いがあるのです。
なんだそりゃ、意味わかんねぇ、と思われるかもしれませんが、たとえばmacbookAirは、16日の朝の時点では「Appleの新作が出る! わっしょいわっしょい」みたいな空気だったのに、今日(19日)の時点で「ああ、そうだよね。当たり前だよ。選択肢のひとつだよ」みたいな空気になってしまっていて、どうやらそれは2005年2月に「Ajax」「web2.0」という言葉が始まってから、「web2.0とはこういうことだよ」「いや違う、こうだ」「いや、こういうことだ」と喧々諤々になること自体が古くなること、が嫌だな、恥ずかしいな、と思うということです。
いわばメタ知識に対する恥ずかしさ。
流行りモノをよく知っていて、情報のキャッチアップも速い、でも、そういう知識を後で見直してみると「いまさら何を言ってんだ」感があるのが嫌だなぁ、と思うわけですよ。ええ愚痴ですよ。
その知識を得ることに意味はあるのか? と問われれば間違いなく有用な意味はあると答えられるんですが、いまさらなことを言うことが恥ずかしいのです。
それと同時に、いまさらなことを聞いてくる人が恥ずかしいのです。なんで答えるほうが恥ずかしがらないといけないんだ。
分かりやすく言うと、「超画期的なインターネットオペレーティングシステム、WindowsME誕生!」みたいなことが2000年くらいにあって、でもそれを紹介した雑誌の記事を今読み返すと「うぇうぇwwwwスペック低いwwwww」と思ってゲラゲラされちゃうような感じです。
ブログの持ち主が死んだらどうなるのか? 的な議論もありますが、答えは「消えていく」だと思います。日々の情報の波に飲まれ、その人に代わる時代の寵児が現れ、ブログは忘れられていくのだと。そしてある日、偶然誰かが見つけて、読み返し、「そんな時代もあったね」と微笑ましくなるだけのことだと思うのです。
ならば全てのブログには意味があり、恥ずかしいと思う知識を重ねることにも意味があると思うのです。
なんだこの青臭いエントリは。

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